志ん生と満州、そして森繁~『びんぼう自慢』より
(4・13/14。2回目の)大空襲ゥがあって間もなくでしたよ。
あたしの知ってる興行師で、松竹演芸場に荷物(芸人)を入れている人が来て
「師匠、どうでしょう。ひと月ばかりの予定で、満州までまで行ってくれませんか。
ゼニは三千円出しますし、それに、向こうにゃァ、まだ酒がウンとあるそうですから、、、」
っておだてるもんだから、あたしゃァ、酒ときいて行く気になったんです。
「向こうには、まだ酒がウンとあるてえから、冥土の土産にたらふく呑んでくるよ。
死んでもともとだ。うまく生きてかえれりゃァ、酒ェ呑んだだけトクじゃァねえか。
オレ、行ってくるよ」
あれは、昭和二十年も、もう五月でしたよ。
上野の駅ィ集合てえから行ってみると、落語があたしと三遊亭円生と二人で、それに、映画説明の国井紫香と、夫婦で漫才やってる坂野比呂志(※)と、他にまだ一人か二人いましたよ。
坂野が若くって元気もいいから、団長てえことになっている。
(※)後年、「バナナの叩き売り」など「(香具師の)物売りの口上」で有名になった。
上野から新潟まで汽車で行って、そこから船で朝鮮の羅津(らしん)て港まで行くってえ話です。
新潟へ着くと、はじめは船がねえとか何とか言っていたが、三日ばかりするってえと、白山丸(※)てえのが出ることになったから、みんな乗りましたよ。
女子供なんぞもいるところを見ると、兵隊さんの船じゃァない。五十時間ばかり乗るってえ話でした。
(※)新潟市内に「白山神社」があります。関係は?
さて、あたしたちは、ひと月てえ約束で満州へ来て、そのひと月がたったら、もう内地へ戻る船なんぞありゃしません。
しょうがねえから、とりあえず新京でもって、一座ァ解散てえことになりました。
でも、うまい具合に、あたしたちのところに、新京の放送局から、それじゃァ専属になってくれませんか、てえ話しが来たんです。
ちょうどその時、放送局の下回りみてえなことをしていた若い衆(し)がいて、あたしのことを随分と世話ァしてくれた。
これが今の森繁久弥(※)だったんですよ。
(※)NHK(新京放送局)のアナウンサー。
みんなで食事した時なんぞ、森繁君が余興に歌ァ歌ったり、即興でなんか喋ったりするんだが、実にどうも、器用で、調子がよくって、品があって、そのあざやかなことったらない。
あたしは驚いてしまって
「あんたは、こんなところでマゴマゴしてる人間じゃないよ。東京へ来て、寄席へでも出たら、きっと売り出すよ。あたしが太鼓判押したっていい」
と、ほめそやしたんです。
あたしだって、長年この世界でめしィ食ってきてんだから、ひと目見りゃァ、この人間の芸はどうだとか、伸びるか伸びないかてえくらいは、すぐ判りますよ。
森繁君は、寄席に入らなかったが、映画やテレビであんなに売れたてえことは、やっぱりあたしの目に狂いはなかったんだなァと、ひそかに自慢に思ってますよ。
あれだけの体(地位)になったって、別に肩で風ェ切って歩くなんてえことをしないのは、
やっぱり満州時代の、あの下積み時代の苦労のたまものでしょうねえ。
人間てえものは、色々と苦労した者(もん)の方が、そうでないものより、なんたって味がありますよ。
※脚本演出による「ラジオ・ドラマ」の製作。ルポ執筆。なども。
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※一番下に、加藤登紀子の「出生物語」と「写真」がある。
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