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2008年3月10日 (月)

『マタイ受難曲』と『タケミツ』~Tさんへの手紙

3月5日
聖トーマス教会合唱団
ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
指揮:ゲオルク・クリストフ・ビラー(トーマス・カントール)
福音史家:マルティン・ペッツォルト(テノール)


@東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル
※「タケミツ メモリアル」名について
故・武満徹氏は、ホールの基本コンセプトをはじめ、設計段階から深くたずさわる他、芸術監督としてオープニング企画を監修してまいりました。オープニングを前に他界した氏への感謝と敬愛の念をこめて、ホール名に「タケミツ メモリアル」を愛称として付加いたしました。ホワイエの中央に、故・武満氏のレリーフ(宇佐見圭司 作)を配しております。

(武満眞樹さんの、当日プログラムのエッセイより)
「父は新しい作品の作曲に取りかかる前には、『マタイ受難曲』の第72番のコラールの旋律をピアノで弾いていました。」
(新しい作品の作曲に取りかかる前の一つの儀式。とも)

武満さんが、亡くなる前々日に、たまたまつけたFMで『マタイ受難曲』全曲が流れていたのだそうです、、、。
「バッハはすごいね。僕はクリスチャンではないけど心身ともに癒された」
と、奥様に(とても穏やかな表情で)言われたとのこと。
そして、その翌日、容態が急変し、帰らぬ人になったそうです。

そして、亡くなられる数年前に「オペラ・シティ」の音楽監督に就任され、
そのオープニング・コンサートのテーマに
「祈り・希望・平和」とし、
『マタイ受難曲』を提案したのだそうです。
しかし、そのオープニングを待たず、武満さんは他界してしまうのですが、、、。
(その『マタイ』には、華々しいイヴェントして「?」の反対意見もあったようです)
結局、オープニングは、武満さんの願いどおり、
小沢~サイトウ・キネンによる『マタイ』が演奏されたのでした、、、。

「父にとって音楽は常に「祈り・希望・平和」であり、その象徴的存在が『マタイ受難曲』だったのだと思います。恐らく多くの人たちにとってそうであるように、、、。」

40数年前、コンヴィチュニーが音楽監督だった、ゲヴァントハウス管弦楽団に憧れていました(ドイツ音楽の「象徴」として、仰ぎ見る、と言った方が正しいでしょうか)

そして、ドイツ(オーストリー)音楽の「最高峰」とも言える『マタイ受難曲』も、ずっと仰ぎ見ていました。

それを、あの日、初めて「生」で「体験」したのです。
それも、武満さん、そして、その縁のある「オペラシティ」
そう、正に「タケミツ・メモリアル」と冠してあるホールで!

様々な「縁」を思い、
「終曲」(『われら涙してひざまずき』)では、自然に涙が溢れてきました、、、。
「安らかに憩いたまえ、、、」
様々なものに向かって、演奏者と共に「祈り」ました。

こうして書いているだけでも、また、涙がにじんできました、、、。

最後に、
この日に臨むに当たって、『レコード芸術~特集・マタイ受難曲』を引っ張り出して「再読」しました。
その発行が、なんと、1998年6月号でした。
「10年後の縁」でした、、、。

柳田邦男氏の『人生の曲折に刻まれた《マタイ》』
(息子さんの「自死」と『マタイ』と私)
には、改めて感銘を受けました。
(「臓器移植(医療)」の『問題』に、自然と言及されています、、、)

そして、鳴海史生氏の「楽曲分析」
『音楽と楽譜にこめられたバッハのメッセージ~メタ音楽としての《マタイ受難曲》』
には、様々な啓示を受け、唸るより他ありませんでした(ウーム、、、)
(『本当に、この人は神の子だったのだ』の箇所で、
「十字架」が浮上するのです!正に「ヴィジュアル」的に。
などなど)

と言うように、、、
「様々な縁」が渦巻き、錯綜した、かけがいのない一夜でした。

長くなりました。
それでは、今日はひとまず筆を擱きます。
失礼いたします。
(以下、メモ的「引用」です)

「父と『マタイ受難曲』」(武満眞樹)
(前略)
母は、「徹さんは『マタイ受難曲』を聴いたことで、もう自然のままに安らかに大いなるものに生命を委ねる心境になったのではないかしら。たまたま自分が病院にいかなかった日にラジオで『マタイ受難曲』を放送していたことに、何か深い恩寵のようなものを思わずにいられない」と言っています。
もしあの時、父がラジオをつけていなかったら、『マタイ受難曲』を聴いていなかったら、ひょっとするとあんなにあっけなく逝ってしまわずに、もう少しの間、病と戦っていたかもしれない。そんな風に思うこともあります。でも最期の瞬間に、本当に穏やかな気持ちで、何か大きな力に身を委ねられたのだとしたら、それは、父にとって幸せな最期だったに違いありません。そしてそのことは残された者たちにも、悲嘆ではなく、ある種の安らぎを残してくれました。
(一部「改行」)
(後略)
※当日「プログラム」より。

「人生の曲折に刻まれた《マタイ》」(柳田邦男)
(前略)
(神経症により)
彼は家にこもりがちなので、映画や音楽のビデオを買ったり借りたりして観ることが多くなった。そんななかで、彼はタルコフスキーの遺作映画『サクリスファイス(犠牲)』に出会い、強烈な影響を受けた。
(中略)
そして、冒頭のタイトル・バックとラスト・シーンに、あの《マタイ受難曲》のアリア「憐れみ給え、わが神よ」が切々と流れるのだ。
(中略)
洋二郎は5年半ほど精神科に通院したが、93年、25歳の夏に自ら命を絶ち、脳死状態を経て、11目に天に翔けた。彼の人生観を汲んで、病む人のために腎臓を提供し、遺体を自宅に連れて帰って今に安置したとき、何ということだろう、長男が何気なくつけたテレビに、まさに放送が終わろうとする映画『サクリファイス』のラスト・シーンが映し出され、あのアリア「憐れみ給え、わが神よ」が部屋いっぱいに流れたのだ。私は立ちつくし、そのあまりの偶然に秘蹟に遭遇したかのような、たんなる偶然以上の深い意味を感じた。
(後略)
※『レコード芸術~特集・マタイ受難曲』(1998年6月号)より。

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