「中越沖地震」と「新潟地震」
遅ればせながら、被災にされた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
04年10月の「中越地震」から、まだ間もないのに、また「中越」である。
(どちらかと言うと、主要な罹災地が、内陸部と沿岸部という違いはあるが)
全く言葉を失うばかりである、、、。
私の実家(両親在住)新潟市は「下越」なので、かなり揺れたそうだが、おかげさまで、建物・人、ともに「何事も無し」だった。
何人の方から、実家の安否を尋ねられたが、改めて、この場を借りて、お礼申し上げます。
何をなすべきか。
(ほんの選択肢の一つですが)
ある蔵の方の(「緑川酒造」コミュ)「コメント」です。
「手軽に支援する方法ですが、被災企業にとっては災害もさることながら売り上げの落ち込みはかなりの痛手となるので、義援金を送るようなつもりで製品を購入していただければと思います。
酒蔵に支援するつもりなら被災蔵の酒を購入するのが一番です。」
店としては、今以上に「新潟酒」「新潟の食品」を売っていこうと思う。
さて、「地震」と言えば、
私は、「新潟地震」(1964年)を、10才(小4)の時に、モロに体験している。
幸い、大地震の割には、周りにあまり「死傷者」がいなかったため、そして、私が小さかったこともあり「悲惨」と言う感じはなかった。
それにしても、あの「揺れ」、立っていられないほどの「揺れ」は、刷り込まれている。
(なので、震度4くらいは、まだ「平常心」でいられる。一応)
そして、ほんとに「大地が割れ」た。
「その時」校庭の真ん中がモロ地割れして、地下水が噴出したのだった。
これには文字通り「魂消」た。
そして、その「地下水」が、地盤沈下と相まって、だんだん「上が」って来て、(校舎からの)避難命令が出るのだが、避難途中、胸まで水が来て、前の二人ほど先の子供は「脱出」したが、私は校舎に逆戻り、という「劇的」な一幕もあったりした。
そして、全員屋上に避難して、、、
そこから見た「昭和石油」の黒煙は、なんだか「映画の1シーン」のようで、結構「客観的」(?)に眺めていたような記憶が、、、。
その後の「サヴァイヴァル生活」は、
「給水車」に、一升瓶(!)やバケツを持って並んだことくらいで、意外と覚えていない。
ある友人の一家(4人家族)などは、やることがない(?)というので(!)、その夜は「マージャン」打って過ごしたという、まあ「強家」というか「心臓家族」と言うべきか、そういう家もあった。
それもこれも「死傷者」が、あまり出なかった、不幸中の幸いの故だったのだ。
「その後」信濃川は「堤防」が出来て、単なる眺める「川」になってしまった、、、。
それ以前は、筏が沢山係留されていて、その筏に乗って遊んだり(一度、足を踏み外し、溺れそうになったこともあったが)していて、子供達にとっては、大事な「遊び場」だったのだ。
中には、泳いでいる「猛者」もいたりした、、、。
「産業」的にも、そのあたり(川端町、上大川前)の「材木屋」は、それ以降、次々に移転もしくは廃業して行ったのだった。
ちなみに、私は「そのあたり」に住んでいた。
40年など、あっと言う間と言えば言える、、、。
04年10月の「中越地震」から、まだ間もないのに、また「中越」である。
(どちらかと言うと、主要な罹災地が、内陸部と沿岸部という違いはあるが)
全く言葉を失うばかりである、、、。
私の実家(両親在住)新潟市は「下越」なので、かなり揺れたそうだが、おかげさまで、建物・人、ともに「何事も無し」だった。
何人の方から、実家の安否を尋ねられたが、改めて、この場を借りて、お礼申し上げます。
何をなすべきか。
(ほんの選択肢の一つですが)
ある蔵の方の(「緑川酒造」コミュ)「コメント」です。
「手軽に支援する方法ですが、被災企業にとっては災害もさることながら売り上げの落ち込みはかなりの痛手となるので、義援金を送るようなつもりで製品を購入していただければと思います。
酒蔵に支援するつもりなら被災蔵の酒を購入するのが一番です。」
店としては、今以上に「新潟酒」「新潟の食品」を売っていこうと思う。
さて、「地震」と言えば、
私は、「新潟地震」(1964年)を、10才(小4)の時に、モロに体験している。
幸い、大地震の割には、周りにあまり「死傷者」がいなかったため、そして、私が小さかったこともあり「悲惨」と言う感じはなかった。
それにしても、あの「揺れ」、立っていられないほどの「揺れ」は、刷り込まれている。
(なので、震度4くらいは、まだ「平常心」でいられる。一応)
そして、ほんとに「大地が割れ」た。
「その時」校庭の真ん中がモロ地割れして、地下水が噴出したのだった。
これには文字通り「魂消」た。
そして、その「地下水」が、地盤沈下と相まって、だんだん「上が」って来て、(校舎からの)避難命令が出るのだが、避難途中、胸まで水が来て、前の二人ほど先の子供は「脱出」したが、私は校舎に逆戻り、という「劇的」な一幕もあったりした。
そして、全員屋上に避難して、、、
そこから見た「昭和石油」の黒煙は、なんだか「映画の1シーン」のようで、結構「客観的」(?)に眺めていたような記憶が、、、。
その後の「サヴァイヴァル生活」は、
「給水車」に、一升瓶(!)やバケツを持って並んだことくらいで、意外と覚えていない。
ある友人の一家(4人家族)などは、やることがない(?)というので(!)、その夜は「マージャン」打って過ごしたという、まあ「強家」というか「心臓家族」と言うべきか、そういう家もあった。
それもこれも「死傷者」が、あまり出なかった、不幸中の幸いの故だったのだ。
「その後」信濃川は「堤防」が出来て、単なる眺める「川」になってしまった、、、。
それ以前は、筏が沢山係留されていて、その筏に乗って遊んだり(一度、足を踏み外し、溺れそうになったこともあったが)していて、子供達にとっては、大事な「遊び場」だったのだ。
中には、泳いでいる「猛者」もいたりした、、、。
「産業」的にも、そのあたり(川端町、上大川前)の「材木屋」は、それ以降、次々に移転もしくは廃業して行ったのだった。
ちなみに、私は「そのあたり」に住んでいた。
40年など、あっと言う間と言えば言える、、、。
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